| 「ださい」がなかった時代 |
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現代用語の基礎知識2008より抜き出した文章です:
《ださい》がなかった時代 私が衝撃を受けて興奮して「これこそが自分の求めていた言葉だ」と思ったのは、1970年代後半になって登場した《ださい》であります。「ああ、あの時にこれがあったら、自分の人生はどんなに楽になっただろう」と思った。 不思議なことに、人が《ださい》を使っているのを始めて耳にした時、「どういう意味だろうか?」とは思わなかった。「語源がなにに由来するもので、どのように使われるのか」をまったく考えずに、いきなり自分のど真ん中にストライクで飛び込んできて、すぐに自分の言語になった。「意味なんか分からなくても、直感で意味が理解される」というのが、言葉というものの神秘だろう。 10代の後半から20代の初めくらいまで、「自分を取り巻くある種のもの」が、いやでいやでしょうがなかった。その「いやでいいぇでしょうがないもの」には、明らかになんらかの共通性がある。そのことだけは分かって、でも、それをどう言っていいのか分からなかった。 まず最初に発想されるのは、「カッコ悪い」である。それは、「カッコ悪いからいやなのだ」と思いはするのだが、どうも言い当てられていない。私が「いやでいやでしょうがない」と思うもの達は、「人」でもあり「物」でもあり、「状態」でもあり、「表現」でもあるような多岐にわたっているものなのだが、それはどうも「カッコ悪い」というような静的なものではないのである。「カッコよくなることに失敗している」というような、動的な状態なのである。 私がまだ年齢一桁の子どもだった時代に登場した戦後の美意識を代表する言葉――「カッコいい」は、激しく肯定する言葉である。「カッコいい!」と言った時、それは100%の輝きを意味するが、それの否定形の「カッコ悪い」は、マイナス100%の輝きのなさではない。「カッコいい」が0%であることが「カッコ悪い」である。しかし、10代の後半から20代の初めの私が「いやでいやでしょうがない」と思うのは、とても「賞賛度ゼロ%」というようなおとなしいすませ方をしてくれない。「マイナス200%ぐらいでどっかに消えてなくなれ!」というくらいの激しい嫌悪を伴っている。「肯定の否定形」などという中途半端なものではすまない。しかも、「肯定されるべきところへ行こうとする行為が否定につながりかかっている」というようなややこしさも持っている。だから、その頃のことを思うと、「あーッ!」と叫びたくなる。 「カッコ悪い」的なものをもっと激しく否定する言葉として、「イモ」とか「イモ臭い」という言葉があることを知る。私の激しい嫌悪は、その言葉の持つ激しい拒絶――つまり峻拒と呼応するので「イモ!」とかは言ってみるのだが、どうも違う。私が嫌悪するものは、「イモ」と言って明確な一線を引けるようなものではないのだ。うっかりすると、こっちに侵入して来そうで、そういう性格を持っているからこそ激しい嫌悪を呼び起こすようなものなのである。それを、なんと規定するのか?その拒絶を明確にする言葉を見つけ出さないと、「なにわけの分かんないことでイライラしてんの?」と人に言われてしまう。 「○○だからなの!」と言えれば明確にカタがつくのに、その「○○」が見つからない。そして、それが《ださい》なのである。「ああ、あの時《ださい》があったら、俺はああも欲求不満でイライラすることがなかった。俺の人生は、もっとシンプルにカタがついたのに」と思った。そう思って、過去の欲求不満を解消する分まで余計に「ださい!ださい!」と罵っていたが、よく考えたら、私の10代後半から20代の初めの時期に《ださい》が存在していたら、「自分は、なにがどのようにいやなのか?」ということを、こうも深く考えなかったはずなのである。 「便利な言葉は人の思考力を奪う」ということもあるのでご注意を。 |